何玏(芝浦工業大学大学院博士課程)
さて、前回は「輸送資源の総動員」に関連して、送迎バスの活用に自治体が期待しない方が良い理由を実務面・政策面から見てきました。今回は、それでもなお輸送資源の総動員に可能性はないのか?という疑問に答えるために、その可能性を深掘りしていきます。また、それにあわせて、そもそも運送サービスはどのような動機で確保するものなのかという本質のところの議論を試みます。
地域公共交通の維持確保に関しては、制度も計画策定の手引きも複雑で難解だと思われがちですが、読むとそれらが少しでも見通しよく把握できるような議論が示せていれば幸いです。
「地域で余っている資源をどうしても活用したいのだが」
前編で、輸送資源の総動員・送迎バスの活用が期待感とは裏腹に一般に困難かつ適当でない理由を述べてきましたが、とはいえ、国土交通省の説明するように地域の遊休資源――余ってる車両、空席――を本当に活用できないのだろうか、遊ばせておくのは勿体ないという見方もあることでしょう。
筆者としては、そうした方向性は深入りする価値があまりないと考えています。「資源」というものに対して見方が一面的なように思われます。
例えば、地域ではさまざまな輸送サービスが別個に走っているが、これは無駄であり、束ねることでもっと効率化できるという主張があります。島根県立大学藤山浩教授の下のような図は近年よく使われています。
藤山浩2014「集落地域への人口定住を支える『小さな拠点』~決め手は“合わせ技”の循環づくり~」https://www.mlit.go.jp/common/001063365.pdf
リンク元https://www.mlit.go.jp/kokudoseisaku/kokudoseisaku_tk3_000054.html
束ねられていないのは不合理なのか?
こうした整理は、まず、こうした観点の下では最大の無駄だとみなされていいはずの「マイカー」が含まれていないことが片手落ちだと考えます。マイカーを束ねることは現実的ではないとの判断があるとすれば、ではなぜ「新聞配達」「卸売共同配送」などのいかにもプライベートな交通を束ねられると考えるのか疑問がわきます。おそらく、個人の行動は制御できないが、企業の行動なら制御できるという発想が根底にあるのでしょうが、その前提が正しいのかどうかも含めて、交通現象の観点からもう少し精緻な議論が求められる感じがします。
また、仮に束ねられれば効率的なのは誰が見てもそうで、しかし束ねられていないのは、束ねない方が有利な事情があると考えるのが自然です。そもそも自動車というものがまだぜいたく品だった1950,60年代までは、こうした移動需要はすべて路線バスや少数のトラックに束ねられていたはずです。しかし、それでは時刻表に縛られて不便であるために、自ら自由に使えるクルマが手に入るようになった個人・事業者は自家用乗用車・自家用トラックを使うようになったのです。公共交通の維持が難しくなったのもこのためです。現在の「縦割り」の状況は自由選択の結果であり、なにも情報の非対称性等によって歪められている結果ではありません。こうした自然な状態をあえて束ねようとすることは、流れに逆らう取り組みになりますから、相当の大仕事になることを覚悟しなければならないように思います。
ある意味これは典型的な「資源配置」「資源配分」の問題ですが、地域といっても様々な主体の様々な都合が複雑に入り組んでいますから、自動車という資源をどのように使うかはあくまで市場と自由選択に委ねたほうが、自治体のただでさえ少数の担当者で奮闘している公共交通担当部門が決定するよりは「効率的」なように思われます。これは近年、地方のローカルバスの経営改善の切り札扱いされている貨客混載にも言えることです。
自動車は貴重品?
クルマは95%は駐車スペースを取るだけだとの触れ込みも自動車メーカーからなされていますが、自動車が車庫に止まっていることが無駄で、それを活用できないかと感じる向きもあるようです。実際、九州運輸局は、送迎バスを運行している施設管理者に対して、車両が稼働しない時間帯の他用途での活用有無をアンケートで尋ねており、遊休時間帯の車両の活用に期待感をにじませています。
九州運輸局2021「地域の輸送資源の活用方法に関する調査報告書」https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/content/000247471.pdf
リンク元 https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/gyoumu/kikaku/file01b.htm
しかし、自動車というものが貴重品だった20世紀前半までならまだしも、現在の社会においては自動車というものは生活や事業の一道具・手段にすぎません。使っていない時間帯の自動車をことさら勿体なく思う感性はオーバーに過ぎるのではないでしょうか。例えば、家の風呂場は/トイレは1日30分しか使っていないから、他の時間はお金を取って/善意で他の人に入ってもらって有効活用しよう――という発想があり得るでしょうか?ご近所さんがテレビジョンを見に来たり黒電話を借りに来たりする時代ではないのです。
あるべき「輸送資源の総動員」を考える
とはいえ、藤山教授の整理は無意味というわけではなく、重要なヒントも教えてくれます。ここで、筆者の考えるあるべき「輸送資源の総動員」を紹介したいと思います。
藤山教授の整理の中には、浜田市営バス・スクールバス・デマンドさんさん号・路線バス瑞穂線が例示されています。筆者は、これらは束ねることが確かに合理的だと考えています。では、この4つは他と何が異なるのでしょうか。これを考えるためには、「他者輸送と自己調達」「公共運送とそれ以外」という分類を導入することが有効です。少し複雑ですが、順を追って説明しますので少々お付き合いください。
輸送サービスにおける自己と他者
何かを運ぶことを「交通サービス」といいますが、路線バス等の公共交通は、運ぶ主体(事業者)と運ばれる客体(乗客)が異なる主体であることが特徴です。一方、それでは事業者という他者の都合に縛られて不便なので、自分で運転して自分を運ぶようになったのがマイカーであり、これは交通サービスの自家生産・自己調達と言えます。マイカー運転の自家生産・自己調達と対比するために、路線バスのような運送事業をここでは他者輸送と呼ぶことにしましょう。
そもそもこの社会では無数の交通需要(移動ニーズ)が発生していますが、そこに束ねて運送を引き受けるスケールメリットがあるほどに密度が高まると、そのスケールメリットを商機にしようと、自動車や鉄道という道具を持った事業者が交通サービスを開業し、他者輸送を開始します。これが、公共交通の発生の仕組みです。交通需要を束ねる仕組み自体は、地方創生の文脈で新たに考えつかなくても、鉄道事業・バス事業等の形でこの社会に堂々と存在していることを認識する必要があります。
同時に、地方部では束ねるスケールメリットが生じるほど交通需要の密度が高くないので、他者輸送としての公共交通ビジネスはもとより成り立ちにくいことが現状です。これでは、マイカーを使える住民は構いませんが、マイカーを自由に使えない住民の生活が損なわれてしまいます。ここで、第三の交通サービスのスキームが発生します。それが、「共同調達」です。自治体が、住民から集めた税金を原資に、移動の足に困っている住民のためにコミュニティバスを走らせることは、本質的にはその自治体の住民による、自治体という仕組みを介した交通サービスの共同調達です。これは、自治体を介さずに地域組織・NPO法人が行う場合も本質的には同じです。
さて、ここで本節冒頭の話に戻りましょう。藤山教授の図に掲げられている各種の交通は、それぞれ自らの生活や事業の手段として自己調達しているサービスですから、それらを束ねる力学はほとんどありません(束ねたほうが効率的であれば自然にそうなっているはずです)。しかし、「浜田市営バス・スクールバス・デマンドさんさん号・路線バス瑞穂線」は異なります。これらは自治体を介した共同調達の仕組みであり、出資者は同じ浜田市民、サービスの供給主体は同じ浜田市です。(こうした地域では路線バスも運行委託に近いレベルの高率の補助金を受けていることが通例ですから、石見交通の路線バスもお金の流れからみれば共同調達だと評価してよいでしょう。)
これらは同じメンバーによる共同調達の仕組みですから、なるべく全体最適にして効率的にサービスを供給するべきことに違いありません。それでも、利用時間帯・区間が異なっているものを無理に統合して不便になっては元も子もありませんので、束ねることを目的化するのではなく、あくまでも広い視野で、目的を意識して、効率化を図る必要があるでしょう。
○他者輸送 → マーケットを通して束ねる
○共同調達 → 自治体を通した意思決定 組織的意思により輸送資源の最適配置を実現できる
○自己調達 → 自由選択の結果
サービスの供給主体と都合の違いを見ずに、目に見える空席・空きスペースに着目して、話し合いを通してそうした輸送資源を差し出してもらおうとする。
ところで、送迎バスはどこに位置付けられるでしょうか。基本的には、自己の事業に役立てるために、他者(交通事業者)に任せるよりは自前で利用者を送迎したほうが良いという判断の下に供給されるものですから、自己調達の体系と評価できるはずです。
一方、この例えでいうと、自治体の共同調達であるコミュニティバス等も、自己の行政目的に役立てるために、住民を送迎するものと捉えると、送迎バスとよく似ています。自己調達のスケールが一個人や一企業ではなく共同体レベルに拡大したものが共同調達だと考えると、両者が連続しているように見えるのも不思議ではありません。細かい話をすると、市町村直営の廃止代替バスが自家用ナンバーなのは、運送主体が純然たる他者ではないということを反映している面もあると思われます。
公共運送と私的交通
自己と他者に着目して、他者輸送・共同調達・自己調達という概念を見てきました。しかし、これだけでは、自己調達ではなく他者輸送・共同調達を優先・推進するべき理由がまだ十分に説明できていません。ここで、世の中にあまたある交通サービスの中に「公共運送」と「私的交通」の補助線を引くことを提案します。ここでいう公共運送は、公的に負担され公的に保障されなければならないという意味ではなく、広く不特定多数のユーザー(公衆)に開かれたという意味です。
不特定多数のユーザーに開かれた交通サービスは、運転手と乗客が個々人としては無関係な他人(自治体共同調達の場合であっても、1万人も町民がいたら個々人は無関係でしょう)であることもあり、1回1回たまたま乗り込んでくる利用者に乗り物の安全性を判断させることは酷です。したがって、公共運送は通常、自家用車にはない厳格な安全管理の体制が組まれています。また、不特定多数のユーザーが安心・快適に使えるように、国の事業法等によりあらかじめ「バス停への掲示事項」「運行中断時の利用者への代行措置」「運賃の明示」などの措置が保障されています。
他者輸送と共同調達(自治体が交通事業者に委託したコミバス等)は、国の法令にのっとって、公共運送として必要な安全管理と利便性確保の仕組みが組み込まれていることが特徴です。自治体の公共交通政策というのは、時刻表に従えば誰でもいつでも使える輸送サービスを確保することで地域の足の問題等を解決する趣旨ですから、それに照らせば「公共運送の確保」を優先するのか、「私的交通への善意の相乗り」を優先するのか、どちらがあるべき姿勢かは明らかではないでしょうか。私的交通への善意の相乗りで構わないという立場に立てば、ローカル鉄道やバス路線を維持したりコミュニティバスを走らせたりする取り組みの底が抜けてしまいます。
あるべき輸送資源の総動員の姿
解決すべき地域の足の問題があるとして、それを私的交通という輸送資源を動員して相乗りで解決をめざすべきなのか、公共運送を共同調達(動員)する形でまとめて解決するのかが判断の分かれ目です。
自治体あるいは(地方)政府というものの役割は、マーケットや個人では解決できない問題に対応することでしょう。したがって、送迎バス運行施設の善意に期待して住民を同乗させるのは、自治体の本来の役割ではないはずです(それで問題が解決するなら自治体は要りません)。
広く一般に開かれた輸送サービスとしては、国の事業許可のもとで運行している公共運送を優先すべきことも前節で確認しました。自家用送迎車両への同乗も公共交通とみなすなら、道路運送法の存在意義はどうなるのでしょうか。
したがって、自治体がめざすべきは、送迎バスへのタダ乗りの推奨ではなく、むしろ送迎バスやマイカーの存在を、自治体が地域の移動・輸送ニーズを十分に掬い取れていないことの表れだとみなし、共同調達の公共運送によってそれらを一本化することだと考えます。わかりやすく言えば、送迎バスの活用ではなく、送迎バスのコミュニティバスへの一本化のような取り組みこそが必要なのです。
大都市の中学・高校はめったにスクールバスを走らせませんが、地方の私立高校は今どき多くがスクールバス(送迎バス)を走らせています。これは、交通需要の密度の低下に伴って他者輸送(鉄道・路線バス)が不便になったため、やむにやまれず教育機関が自己解決を迫られた結果です。同時に、これは自治体による交通サービスの共同調達の取り組みが不十分だったということでもあります。特に、病院の送迎バス等はそうでしょう。わがまちでの送迎バスの存在を、利用可能な資源とみなすのではなく、自治体の公共交通政策の不備の表出だと認識する観点が必要ではないでしょうか。
下野新聞 (@shimotsuke_np) on X那須高の悲鳴「放課後ダッシュで毎日ドタバタ」 JRダイヤ改正で授業繰り上げ #下野新聞公共交通が不便になり教育活動が制約を受け始めたことが報道された例。自前のスクールバスを設定する一歩手前。
送迎バスへの相乗り推奨と、送迎バスの公共交通への一本化は、やっていることは似ているように見えて、方向性は真逆です。筆者の意見としては、自治体として目指すべきは当然後者ということになります。
前編・後編とも話をわかりやすくするために、送迎バスに着目して議論してきました。しかし、これは輸送資源の総動員として掲げられているスクールバス、福祉バスにも少なからず共通することです。
次回は、地域公共交通活性化 なぜ生まれた?「輸送資源の総動員」です。